「ガラスの納まり描いてみて」
全てはそこから始まったのだと思う。
大学を卒業したての若造は、意気揚々と、言い換えれば生意気とも言えるほどの態度で仕事に臨んでいたのだと思う。ボスの要求は、CADは使わず、実寸スケールの手書きだった。
私が大学に在籍していた時分は、手書きからCADへの移行期にあたる頃で、学部ではほとんど手書きで図面を描いていたこともあり、正直楽勝と思い取り組んだ。しかし、私が描く住宅の単なるはめ殺し窓の詳細図は、幾度となくダメだしと書き直しをいわれた。A2用紙を4枚縦繋ぎにした長尺の紙が、次の作業もままならないくらい私の机を覆い隠し始めた。ダメだしの理由は単純だった。
「ガラスが入らない」
入らない理由を言うのは簡単だが、それを言えば無駄にした用紙がほんとうのゴミになる、とボスは言う。仕事をはやく終えたい私は、単なる意地悪か、とか、回りくど過ぎる、とかさんざんのことを考えながら、結局タイムリミットを向かえた。その納まらない状態のまま、次の日現場で打合せをすることになった。
取り合う部位含め、いろんなレベルの縦断も平断も、建築主や職人の理解が深まるだろうと見下げや見上げのアクソメも描いた。使用する材木や鋼材が流通・汎用性があり、強度も必要十分、見栄えもシンプルで格好の良いものだと確信していた。実は内心、おさまるのではないか?おさまらない訳がないのでは、とやった感満載の成果やその充実感から、ボスの指摘も無いものにして、妙な自信で現場に到着したことを思い出す。そして、持参したその大きな詳細図をこれでもかと現場の床に広げ、建築主立会いのもと職人達に説明をした。
「先生。おさまってないなぁ」
一同だめだし。私より明らかに若いとおもわれる職人さんにいたっては、嘲笑プラス「世界の常識だ」とも蔑まれた。その時感じた憤りや焦り、不安や手を止め時間を割いてくれた職人への申し訳なさなど、様々な感情が一気にミックスされ、頭の中は真っ白に。ついには、そんな私を遠くから見ている私もそこにいたような、今まで体験したことのない現実逃避真っしぐらの状態に陥った。それを引き止めてくれたのは、自身も現場に出て作業する、塗装やサイン関連の工事を生業としている建築主の一言だった。
「これでは、けんどんもやり送りもできないよ」
「なんですかそれ?」そんなことを言えば、元も子も、仕事も身分も失われると、なまじ分かっていたが、切羽詰まったこの状況、言わずにいられずつい言ってしまった。もちろん、面々下目遣いと嘲笑の嵐、「時間もったいないから作業するね」と言ってくる職人さんもでてくる始末。もう不安と焦りしかない私に、建築主から駄目押しの一言。
「大学院でてて、そんなことも知らんのか?」
なぜ前日、ボスが納まらない理由を最後まで教えてくれなかったのか?その瞬間、スゥーーと全て理解できた。頭だけデカくなった状態が、驕りを生み出し、挙げ句の果て最も基本で重要なことまで押さえられずにいる、又は見ようとしないことになる。それが自分だと、如実に、かつ効果的に指摘していたのだ。実際その時、職人がガラスをどう入れるのか想像できていなかったし、その方法さえ知らなかった。自分ならガラスをどう設置するか、という詳細を描く上で必要かつ根本的なシミュレーションさえできていなかった。
「これまでガラスを入れたことが無いからわからない」「なんとでもなるだろう」と簡単には言えるが、建築を設計する立場の人間が言えばどうだろう。その軽率で皮相的な判断は、自身だけでなく、関わる多くの人の時間を奪い、そこに込めた考えや思いは一瞬にして無駄になる。場合によれば社会的信頼まで失うことになるだろう。それを身を以て感じた瞬間だった。
床に広げられた実寸の餅の絵は、すぐさま工事に邪魔な紙くずとなったが、それを畳み折る自分にとっては、これまでの自分を諭す教訓となった。そしてなにより、建築という行為にたいして、変わることのない根本的な考え方を授けてくれたのだと思う。